2023/02/20

電気あんまだと!

大阪の支援学校の校長が生徒に「電気あんま」をかけて、訓戒処分を受けた(2/18毎日新聞夕刊より)。電気あんまという言葉や行為が、まだ生きていたとは思わなんだ。自分は小学生の頃に実際に体験しているので、それがどういうものか理解しているが、若い人たちは電動のマッサージャかと思うかもしれない。

電気あんまは、言うなれば子どもの遊びである。我われの小学校では、授業の昼休みに教室内で胴馬(どうま)*をやって、負けた方のチームが罰ゲームとして電気あんまを受けていた。と、ここまで打って、Wikipediaをチェックしてみたら、なんと「電気あんま」がありました。「電気アンマを実際に行っている様子」の画像まで掲載されている。なんてこった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/電気あんま

電気あんまが性行為につながるとは、小学生の頃には、まったく思っていなかった。男児同士に限った「おふざけ」であり、度を超したあんまが「いじめ」と、とられるだけだった。Wikipediaの記事中には記載がないが、相手の体を裏返しにして、肛門にあんまをかける技を、当時我われは「ガスあんま」と呼んでいた。

*胴馬:馬跳びをベースにした、チーム対抗の根性比べゲーム。片方のチームのメンバー1が黒板を背にして立つ。チームメンバー2は、立っているメンバー1の股に頭を入れて、馬になる。メンバー3はメンバー2のお尻側から頭を入れて、馬になる。メンバー4以降同様に馬を連らねていく。メンバー数は5、6人である。もう一方のチームが、この馬を跳ぶ。馬の背中に着地する際に、思い切りダウンブロウをかける。馬は体を捩って妨害する。数人が連らなってできた長い馬の上に、数人が数珠繋ぎとなって跨っていく。跳ぶ方のチームは誰かが馬から振り落とされたら負け、馬のチームは誰かが膝や手をついたら負け、という肉体的に厳しいゲームである。


2023/02/18

失敗したんぢゃないの?

韓非子を、たった今まで「かんびし」だと思っていた。つまり「び」の部分が、半濁音ではなく濁音になっているのだが……何十年もの間、間違えて憶えていた。恥ずかしい。

それはともかく。国産初のH3型宇宙ロケットの打ち上げに失敗、という見出しが真っ先に思い浮かんだのだが、宇宙航空研究開発機構(通称:ジャクサ=JAXA)は、これを失敗とは言わなかった。まったく潔くない態度であると、私を含めた多くの人が思っただろう。事後の記者会見の場で、どうしても失敗を認めさせたい共同通信社の記者が「これは一般的には失敗といいます」と言い放ったそうだ。

だが、冷静に考えてみれば、ロケットは実際には打ち上がっていないのだから、打ち上げの失敗ではないと言ってもいいのである。全エンジンが正常に点火して、ロケットが空中に浮き上がった後に高度を維持できず墜落したら、これこそが「打ち上げ失敗」と言えるだろう。後刻、毎日新聞一紙しか拝見していないが、共同通信の失敗言説を採らずに「打ち上げ中止」と報じている。

今回のことから想起するのは「受験に失敗」という言葉である。これなども、受験することができなかったという意味にとれるので、かねて違和感があった。しかし、これをジャクサ式に考えれば、受験できなかったのは「中止」であり、受験はしたけれど不合格だったのが「失敗」と言えるのである。


2023/02/16

湖は餓えて煙る

最近、連続してエセーを読んでいる。伊丹十三から五木寛之へ、そして北上次郎こと目黒考二の『息子たちよ』(早川書房)である。自称・翻訳ミステリ応援団として、その方面の作品ばかりを読んでいる日常からすれば異例のことだけれども、急逝した作者を偲んで、本箱から引っ張り出してきた。家族向けの『プレジデント・ファミリー』誌に連載されていたものを、まとめたものである。二人の息子に対する思い(息子たちよ)をブックガイドに事よせて、あるいはその逆かもしれないが、書かれたものであり、子どもと親の関係がテーマであるからして、目黒考二であるべきところ、北上次郎名義で書かれたものである。『息子たちよ』というタイトルは『女たちよ!』を、まねたのかもしれない。

ちなみに、角川文化振興財団主催の第2回城山三郎賞の候補作となった『昭和残影 父のこと』(KADOKAWA)では、ホン・ミョンボぢゃなかった本名の目黒名義で父君の周辺を書いているので、二作合わせて『目黒家の人びと』上下巻が成立する塩梅である。

『息子たちよ』の中で紹介された作品に『湖は餓えて煙る』(原題:Starvation Lakeブライアン・グルーリー著/青木千鶴訳/ハヤカワ・ミステリ)がある。ブライアン・グルーリーなんて今まで聞いたことがない名前だ。この邦題は、まったくいただけない。読みにくいし、憶えにくい。「みずうみは・うえて・けぶる」なんて、そも意味が判らんではないか。Starvation Lakeはアメリカ・ミシガン州にある湖の名前である。こういう時こそカタカナで『スターヴェイション・レイク』とすればいい。水上勉風に『飢餓湖』でもいいではないか。ともあれ読みたくなって、隣市の図書館から借り出した。2010年9月の初版本は、手垢や折り癖がついておらず、とてもきれいだった。私の勘では、おそらく一回しか貸し出されていない。


2023/02/13

母の受難(二度目)

竹内まりやの歌が延延とリフレインしている。実際には音は聴こえていないけれど、まりやが歌っていて、そのメロディが脳内に流れている。歌詞が「判読」できないのは、脳が記憶していないからだろう。タイトルも思い出せない。後で調べたら「Plastic Love」と判った。YouTubeの検索窓に[竹内まりや ミックス]と打ち込んで、彼女の曲を片っ端から聴きまくるつもりだったのに、2曲目が件の曲だった。簡単すぎるやんか!

それはともかく。母が居室で倒れて、肋骨を折ってしまった。最初は打撲程度に思っていた。じっとしていると痛まないが、動作によっては激しく痛むので、日頃世話になっている外科医院で診察を受けた。私がフットサルの試合で手首を骨折したときに治療してもらった医院でもある。

まずはレントゲン撮影である。次にエコーをあてて診てもらったら、2か所の骨折が見つかった。肋骨骨折の治療は、たいがい「日にち薬」である。折れた所が自然に復元するのを待つしかない。肋の周りに巻くバンドと湿布薬をもらい、帰宅した。

母の骨折は3年前の大腿骨につづいて2回目である。前回は救急車で入院して、手術を行なうことになる大怪我だった。それに比べればましと言わざるを得ないが、心配は尽きない。

私も肋骨を折ったことがある、たぶん。というのは医師の診断を受けなかったからだが、自転車のタイヤが木の根っこを踏んで転倒し、ハンドルで脇腹を強打したのである。かなり痛むので、肋骨が折れていると自己判断して、静養に努めた。痛みは徐々に治まっていった。ところがある日、脇腹で「ペチッ」という大きな音がして、痛みがぶり返したのである。想像するに、ひびが入ったか折れたかしていた肋骨が、やっと元の位置に戻って音が出た、ということだったのだろう。その後痛みはとれて、また運動ができるようになったものである。


「これは……折れてますな」
















骨折箇所のエコー画像

















2023/02/12

天使と死神

好きな映画の中に『天国から来たチャンピオン』(原題:Heaven Can Wait/1978年・アメリカ)『ジョー・ブラックをよろしく』(原題:Meet Joe Black/1998年・アメリカ)がある。両方ともわがオールタイムベスト20に入る作品である。ベスト20に入るって言っている作品が過去にいくつもあって、20を超えてしまっている可能性があるので、そのうち整理・集計する必要がある。

上記の2作品は、ともにファンタジィである。すなわち現実世界にはあり得ない話を映像化している。『天国から来たチャンピオン』では、天使がミスをして、死ぬはずではなかった人を天国の入り口まで連れて行ってしまう。一方『ジョー・ブラック…』では、死ぬことになっている人を、死神が迎えに来るという設定である。あり得ない話であるが故に、娯楽として成立するのだが、人が亡くなる話は、やはり切ない。

在京の小出版社である本の雑誌社を、椎名誠とともに立ち上げた、目黒考二さんが急逝した。ステージIVの肺がんが見つかって、1か月後に亡くなったそうだ。突然の訃報には驚いた。新聞の死亡記事も目にしたが、信じられないのである。天使のミステイクだと思いたい。

そして、アメリカの作曲家バート・バカラック[Burt Bacharach]が逝った。彼は94歳だったので、天寿を全うしたと言ってもいいだろう。死神が予定通りに迎えに来たのである。バカラックは特に好きな作曲家であり、PCのディスクの中にも彼のアルバムが収録されているし、めったにないことだが自伝も持っている。『バート・バカラック自伝 ザ・ルック・オブ・ラヴ』(原題:Anyone Who Had a Heart: My Life and Music)には彼の85年の人生が赤裸々に描写されていて、ファンにとっては一読の価値がある。バカラックは映画音楽のフィールドで活躍し、『明日に向って撃て!』(原題:Butch Cassidy and the Sundance Kid)では「雨にぬれても」(同・Raindrops Keep Fallin' On My Head)でアカデミー主題歌賞を受けているが、小生のお気に入りはインストゥルメンタルの「South American Getaway」という軽快な曲である。


毎日新聞掲載の死亡記事






















2023/02/11

パンチと白味

学生の頃、放送局のニュースフィルム編集室でアルバイトをしていたので、パンチ白味(しろみ)も実体験がある。野上照代『天気待ち』に出てくるパンチは、ポジに現像したものの、NGとなったカットが写っているフィルムの齣(こま)のど真ん中に、穴を空けてしまうことを言った。

私が知っているパンチは、OKのフィルムの枠の右上隅に打つものだった。これはすなわち、ある一定時間数のコンテンツを記録したフィルムを映写するときに、その時間数が間もなく尽きるということを、画面を観ているディレクタに伝える合図である。

フィルムの終点から逆算して3秒ぐらいの場所に、一つ目のパンチ穴を空ける。二つ目を終点の直前に空ける。パンチは物理的な穴なので、映写された画面上では白く抜けた穴として見える。ただし、見える時間はおよそ0.1秒。パンチが現われることを知っている人には見える。知らない人にはフィルムの汚れとしか見えないだろう。

ディレクタは、一つ目のパンチを見たところから、3・2・1とカウントして、二つ目のパンチで画面を切り替える。たとえばキャスタの顔をとらえているライヴカメラの映像か、別のフィルムコンテンツに、である。もちろん、これも昔の話なので、今はフィルムがV(ヴィデオ)に置き換わっている。

ディレクタがスイッチ(画面切り替え)するタイミングが遅れると、どうなるか? 画面に白味が現われるのである。動画が記録されているフィルムの終点から後に、黄色っぽい乳白色のテープが、つなげられているからである。この部分は、フィルムをリールに巻き取る際の保護の役もしている。白味のところまで映写してしまうと、画面が乳白色に染まってしまう。これは放送事故として責任を問われる。

スイッチのタイミングを逸しても大丈夫なように、最終カットを長めにしておいたり、最終カットの後に予備のカット(捨てカットと呼ばれていた)をつないでおいたりするのが、編集者のテクニックの一つだった。


2023/02/10

また、風に吹かれて

バターナイフが壊れた。壊れる? Do You こっちゃ。薄い板である刀身を挟んでいたハンドルが取れた。カシメてあると思っていたのに、接着剤で引っ付いていただけのようだ。つまり、ハンドルの素材はプラスチックだということである。購入して、もう何年も経つ。安物であることを承知で買ったのは、祖父が愛用していたナイフと形や色が似ていたというセンチメンタルな理由からだった。祖父のナイフのハンドルはプラスチックではなく、たぶん象牙製だ。今、ツヴィリングが販売している「ボブ・クレーマー」シリーズに装備されているようなものだった。

それはともかく。『風に吹かれて』を読み終わった。五木氏も、こう書いている。「…単語やフレイズが、全くなんの脈絡もなく私の内部から意識の表面に浮び上ってくることがある」。まったく初見同様のエセー群の中に、記憶が鮮明なのが一編だけあった。五木氏が作詞して初めて世に出るCMソングの歌い手として、録音スタジオにやって来たのが15歳の女子学生だったというエピソードである。この歌手の名がビッグになったことで印象が強かったのだろう。


2023/02/05

風に吹かれて

今日フラッシュしたワードは「ホスホリターゼ」だったぜ。きっかけも何もない状態で、ポッと頭に言葉が浮かぶ、この現象(いっそのこと症状と呼ぶか?)を、認知心理学の世界では何と呼ぶのだろう。とりあえず、ワードの方だけをウェブで検索してみる。インタネットは、ありがたい。非常に便利である。ネットに接続するマシン(PC)の発明とともに、人類に大きな貢献を果たしたのである。ノーベル賞ものであるが、受賞は、していない。該当する部門がないから、である。しょうもない。

それはともかく。ホスホリターゼという言葉は、なかった。見つかったのは一字違いの「ホスホリパーゼ」だった。Wikipediaによれば「リン脂質を脂肪酸とその他の親油性物質に加水分解する酵素」とある。そう聞いても何のこっちゃか分からない。関係があるとすれば、駆除する必要があってスズメバチのことを調べた際に、ハチ毒=ホスホリパーゼA2という文字列を見た(記憶はない)ことだろうか。

前置きの方が長くなってしまった。『風に吹かれて』は、ボブ・ディランの歌と関連性が、あったのだろうか。五木寛之の同名のエセー集(『週刊読売』に連載されたコラムを一冊にまとめたもの)を読むと(高校生の頃に、こんなものを読んでいたのか)と思う。こんなもの、という言葉には作品に対しても自分の読書傾向に関しても、批判的な意味合いはない。すっかり忘れていた過去の読書体験が甦ったことへの感慨が、あったばかりである。勘定してみれば、半世紀前のことになる。これほどまでに内容を忘れていれば、ほとんど初めて読むのと同じである。伊丹十三選集を読みながら、これは読んだことがある、とすぐに思い出せるのとは大違いである。

■メガブログまで、あと1

2023/02/04

ビニ本になった伊丹十三

最近、講談社文庫がシュリンクパックになって売られている。カバーの表面は透かして見ることができるものの、中身(本文)を検めることはできない。どんな内容かは、ウラスジ(ヒョウヨン=表4部分のカバーに印刷されている粗筋)から窺い知るしかない。こういう仕掛けのことを「ビニ本」と呼んだのは、もう半世紀前のことになる。

およそ三年前に、伊丹十三選集・全三巻が岩波書店から発行された。いっぺんにではなく三期に分けて。梅田の紀伊國屋書店、蔦屋書店、地元のT書店で一冊ずつ購入した。これらがすべて「ビニ本」だったのである。中を見せてくれ! せめて見本に一冊、フィルムを脱がせたのを置いといてくれ、と思ったものである。現在まで伊丹十三選集の三巻は、フィルム(たぶん、P.P.=ポリプロピレン製)を被ったまま、我が本棚に積まれている。

実は、積ん読のまま、中身だけを読んでいる。バット、ハウ? 地元の図書館の棚に同じ本があったのを見つけて、借り出してきたのである。このエピソードを書いていて、知り合いのフィギュアコレクタが同じものを二つ買い、一つは開封しないで保存し、もう一つは開封して手にとって弄ぶ、と言っていたことを想い出した。











■メガブログまで、あと2


2023/02/03

ブックオフにて

自分は潔癖症であるからして、図書館の本とか古本が好きではない。それでも昔発行された本を読みたくなった時は、仕方なくそれらを利用する。

ヘンリー・ウィンターの『フットボールのない週末なんて』(原題:Can't Live Without Football/山中忍訳/ソル・メディア/1,760円)は、何年も前から読んでみたいと思っていたタイトルではあったが、フツーの書店では、あまり見かけない、特殊な趣味人(フットボールファン)だけのための本であった。一度は大阪・難波の大書店で発見したのだが、美本ではなかったので購入を見送った。これもまた潔癖症のなせる業であった。

そうこうしているうちに『フットボールのない週末なんて』が古本市場に出てきたのである。ウェブ検索にヒットした『フットボール…』は税共220円、販売元はブックオフさんであった。早速カートに取り込んで購入手続きを行なった。店舗で引き取れば送料は不要である。同じ市内に店舗がなかったため、隣市の店舗を指定した。

後日受け取った『フットボール…』は、おそらくsecond hand(ここでは、自分が二人目の所有者という意味)なのだろう、ほとんど手垢のついていない、きれいな本であった。そうして、ついでに店内を渉猟するうちに、余計なものを買ってしまうのも世人の常であろう。今や作家名のインデクスも立ててもらえぬほど落魄した五木寛之のエセー『風に吹かれて』(角川文庫/ブックオフで110円)と、フォードGT40と思しきミニカーのジャンク(これも110円)も手に入れた。

『風に吹かれて』を高校時代に読んで、五木作品のファンになった。エセーの他にも『ソフィアの秋』などを読んで、小説の舞台になっている東欧圏に興味を抱いたものである。その頃、同級生には筒井康隆に熱中している奴がいた。1972年ごろの話である。