2020/02/14
聖伴天連の日でしたね
懲りずにカメラ関連の話を書こう。
初めての一眼レフカメラNikomatを提供してくれたのは、在阪A放送局の報道部に属する、ムービーカメラマンだった。
私は、その放送局の報道技術部で、ニュースフィルムの編集補助のアルバイトをしていたのである。
昭和50年代初頭、A放送局で使われていたのは、キヤノン・スクーピックという、16ミリフィルムに記録するムービーカメラである。
フィルムはリバーサルタイプで、すなわち撮影したものを現像すると、ポジの状態になる。
映画を撮る35ミリのカメラは、大きくて機動性に欠ける。
そこで、主にニュース報道カメラマンに使われたのが16ミリカメラというわけだ。
大まかにいって弁当箱ぐらいのサイズで、片手で持てるぐらいの重量だった。
実は、スクーピックの使い古しを払い下げてもらって、映画を撮るという企みも、なくはなかった。
結局、資金と覚悟と情熱の不足により、16ミリのムービーカメラを買うことはなかった。
アカデミー賞を獲れていたかもしれんのに……
それはともかく。
カメラマンは取材先に社用車で出かけていって、撮影済みのフィルムを持って帰ってくる。
急ぎのニュースフィルムの場合は、専属のバイク便(四輪車より速い)をチャーターして、取材先から局に届けてもらう。
もっと急ぐ場合は、ヘリコプタで運び、局の屋上に投下してもらうこともあった。
ある時、ヘリコプタから投下されたフィルム(専用缶入り)をキャッチしそこねて、屋上の床でひしゃげてしまい、開封するのに難儀したことがあった。
局に届いたフィルムは、まっすぐ現像室に運ばれて現像される。
A放送局は、地下1階に現像室があった。
現像済みのフィルムは、たしか6階にあった編集室まで、アルバイトが持って上がるのである。
急ぎのニュースの場合には、現像室の前で待機して、フィルムの入った缶を受け取るや、全速力で階段を駆け上がる。
エレベータは、事故で停止しまう可能性があるので、使わないのである。
自宅に、当時のフィルム缶(ブリキ製)があった。
富士フィルム製である。
当時はコダックも併用されていたと記憶する。
[MAGNETIC STRIPED]という表示は、フィルムの端に、音声記録用の磁気テープが装備されていることを指す。
つまり、トーキーである。
編集室に届いたフィルム缶を開封し、編集するのが報道技術部の担当者である。
左右に巻き取りリールの付いたビュウワ[viewer]で、撮影済みの全シーンをチェックして、必要と思う部分を切り出して、つなぐ。
文字通り、鋏(握るタイプのものだった)で切って、糊かテープで貼ってつなぐのである。
編集担当者が切ったフィルム片を、つなぐのがアルバイトの役目だった。
スプライサ[splicer]という器具を使って、フィルムの裏面[コマとコマの境目部分]を削り、そこに接着剤[なんらかの溶剤]を塗って、次のフィルムを圧着する。
末端同士が重なることになるので、接着部分は、少し分厚くなる。
フィルムを削り過ぎると破れて、貴重な一コマが失なわれてしまう。
接着剤が多すぎると、溶剤によって画面のつなぎ目が、にじんでしまう。
少なすぎると、連続しているフィルム片が、断裂してしまう。
決められた時間のニュースフィルムに仕上げるために、つないだフィルムの長さを測るのも、アルバイトの任務だった。
日本では長さのことを尺(しゃく)と呼ぶが、実際に使っているのはフィートという単位である。
16ミリムービーの場合、1秒は24コマで構成される。
5秒[=120コマ]が、ちょうど3フィートとなる。
30秒のニュースクリップを作るためには、18フィートのフィルムを要するのである。
フィルムをつなぎながら、専用のメジャーで長さを測っていき、編集担当者に残り何フィート、何コマと伝えるのである。
通常、最終カットは規定の秒数よりも長くしておき、ニュースの時間枠が多少[秒単位で]延びても、途中で映像が切れてしまわないように配慮していた。
その際、規定秒数が尽きる合図として「パンチ」と呼ばれる、物理的な穴をフィルムに明けておくのも、アルバイトの役目だった。
フィルムの裏面は、膜面(まくめん)と呼び、感光乳剤が塗られている。
この乳剤部分をスプライサで削っていたのだが、ミクロで見ていたアルバイトの目には、段々畑のように、立体的に重なった乳剤の層が映っていた。
それはまるで油彩における、画家の絵筆のストロークのようでもあった。
編集済みのフィルムが放送された後は(放送されないこともある)、アーカイヴ行きである。
時系列順に、一定量になるまでフィルムをつないでいき、大きなフィルム缶に収める。
各々のニュースクリップに対して、被写体や撮影場所などのタグ付けをしたカードを作成する。
このカードに穴明け(パンチ)して、専用コンピュータで検索できるようにする、当時の最先端システムだった。
*
イオン・タウンに食材の買い出しに行った。
バナナ、梅干し、豆、カット野菜、豚肉細切れ、七味唐辛子、カレーフレイク、トマト缶、紅茶(ケニヤのリーフティ)、ロールパンを買う。
マーケットの中で、市の福祉協議会が寄付を募って[募集して]いたので、一口の寄付を思い立つ。
専用の封筒に500円硬貨一枚を入れ、寄付者の名前と、本日の日付を記入する。
「今日は何日でしたか?」と訊くと、
「14日。バレンタインデーやね」と、受付のおばちゃん。
ああ、そんな日でしたか。
わずかな寄付に感謝され、チョコレートのかわりに飴をいただいて帰った。
2020/02/06
ゴッホ展に行く(ver.2)
(全面改稿済み)
久しぶりに兵庫県立美術館に行って、久しぶりに生のゴッホ作品を観る。
大阪梅田から阪神電車の特急に乗って「御影」へ。
普通列車に乗り換えて「岩屋」で下車。
何度か来ているはずなのに、すっかり忘れている。
徒歩で南下する。
美術館の屋根にカエルがへばりついている。
このカエルは風船なので、風に揺れる。
まるで、ゴッホ展をアピールしているかのようだ。
県立美術館の建物は安藤忠雄の設計である。
安藤作品らしさと言ってもいいだろうか、どこからアプローチして入館すればいいのか、わかりづらい。
今回のゴッホ展は、昨年10月東京・上野の森美術館で幕を開け(2020年1月13日閉幕)、兵庫県立美術館に巡回(1月25日土曜日から開催)してきたものである。
会期は3月29日日曜日までであるが、なるべく、すいている時に鑑賞したいものである。
ならば、いつ頃行くべきか?
会期の終わりが近づくにしたがって客足が増えるのも、美術展の常である。
開会直後も混雑が予想されるので、そこをやり過ごして、なるべく早く観に行くのがいい。
まず、混雑が予想される週末(土・日曜日)は避ける。
月曜日が休館なので、火曜日から金曜日のいずれかが望ましい。
客足が鈍いと思われる雨の日を狙って、わざわざ行くというテもある。
というわけで前置きが長くなったが……開会して約一週間後の金曜日に行った。
ゴッホ展の観覧料(チケット代)は、1,700円である。
いくらゴッホ展だといっても、ちょっと高い。
大阪のジュンク堂で本を買ったときにもらった割引券を使い、100円だけ安くしてもらった。
ゴッホ展へのアプローチ |
できれば展示室内で撮影したかったのだが、許可されず。
したがって、作品の写真は一点もない。
作品はもちろん、画題の表示板を記録したかったのだが、パンフレットの片隅に、館員から鉛筆を借りてメモするにとどまった(自分が持っていたボールペンは不許可)。
当然ながら、作品の現物を自分の目で観ること以上に、素晴らしいことはない。
特に油彩においては、作者の筆使い(ストローク)が、生々しく感じられる。
間近まで寄って、下から・横から観るのは、混雑していてはできない。
自分が画面を観ているのと同じ場所に、フィンセント[・ファン・ゴッホ]が立っていた(あるいは腰かけて)と思うと、心が慄える。
順路にしたがって歩いていくと、ゴッホ展は、あまりにも呆気なく終わる。
ついで、と言っては失礼だが、安藤忠雄ギャラリーも観る。
ゴッホ展に負けず劣らぬ圧巻である。
ドームを冠した建物模型は、フランス・パリの旧穀物取引所(ブルス・ドゥ・コメルス)を、安藤が得意とするコンクリートのパネルを内部に入れ込む手法でリノベイトした時のものである。
ブルス・ドゥ・コメルスの模型 |
正面の書棚のアップ |
展示室だけでなく、建物の外部にも見どころがある。
美術館の南側のオープンスペースには彫刻作品が設置されている。
正確に言えば、彫ったり刻んだりしたものではなく、主にステンレススティールで造形したものである。
「Sun Sister」と題された少女像は、右手に輝く太陽(希望の象徴)をのせ、過去・現在・未来を見つめるように、摩耶埠頭に向かって屹立している。
(2015年ヤノベケンジ作・阪神淡路大震災20年モニュメント)
「Sun Sister」 by ヤノベケンジ |
Sun Sisterと記念撮影「映え〜」 |
脇浜に展開する「なぎさ公園」を、西へ歩く。
脇浜一帯は震災復興のシンボルとして再開発されたが、南海トラフ地震が発生したときの大津波には対処できるのだろうか。
円形舞台 |
「人と防災未来センター」ガラス越しの壁面には「1995」「5.46」の文字 |
阪神電車「岩屋」に戻るつもりが、道に迷った。
山を向いて北に歩けば、阪神・JR(祖母は省線と呼んでいた)・阪急のいずれかの線路に行き当たる。
親切な通行人に教えられて、たどり着いたのが阪急「春日野道」駅だった。
(えらい西に逸れたことである)
JR線が並走している |
初めて利用する駅である。
こんなに細いプラットフォーム(アイランド型)も初めてだ。
通過する特急列車を避けるスペースが、あまりにも狭い。
普通列車に乗車、「岡本」で特急を待って乗り換え、梅田に戻った。
2020/02/03
土鍋の蓋を割る
不注意で、土鍋の蓋を割ってしまった。
台所の床の上で、木っ端微塵になった。
破片をつなぎ合わせて漆で接着できるかな、と思ったが、それも無理と思わせるほどの惨状だった。
鍋の本体が割れてしまったのなら、簡単にあきらめて、新調するところである。
そうすると、本体も捨ててしまうことになるだろうが、勿体ないことである。
新調する費用も、4,000円ほどかかる。
ちょっと悩むところである。
蓋だけ売っていないかとインタネットで探してみたら、ちゃんとありました。
需要があるわけですね。
鍋のサイズは7号・1.2ℓ炊きであった。
我が家では、これで飯を炊いている。
すり切り2カップの米を洗って・つけて、ガスコンロで炊く。
コンロには炊飯モードという機能があって、自動で火加減をしてくれる。
簡単に、おいしいご飯が炊けるのである。
しかも、どういう加減か、ときどき、お焦げもできる。
2カップの米を炊いて、茶碗2杯のご飯を食べたら、残りは密封容器に移して、冷凍保存しておく。
解凍して、なお、おいしく食べられる。
それはともかく。
7号の土鍋に合う蓋は簡単に見つかった。
本体と同じ絵柄のものは、1,000円を少し上回る値段である。
同じ7号の柄がちがうもので、400円ほど安い蓋があった。
サイズを確認すると、まったく同じだったので、400円をケチって、そちらを注文したのである。
注文したのは、貫入という、一面にひびが入っているように見えるタイプのものである。
ツートーンカラーの土鍋となりました |
買ったのは楽天市場であった。
今までは、ほとんど使っていなかった。
ヨドバシ.comやAmazon.co.jpに比べて、使い勝手が悪いので。
ところが、格安SIMを契約しているMVNO業者が楽天に買収されて、その業者から付与されていたポイントが、楽天ポイントに変わってしまった。
それ以来、積極的に楽天ポイントを集めるようになり、今回の土鍋の蓋も楽天ポイントを使って購入することになったのである。
2020/02/01
カメラ小僧!
カメラ小僧という言葉は1970年前後に、よく聞かれた。
この言葉から、篠山紀信を連想する。
小僧という感じでは、まったくないのであるが……
要するに「カメラを持って、街に出よう」的な、写真機か写真フィルムのメイカーが企んだメディアキャンペインだったのでは、なかろうか。
携帯端末に、もれなくカメラのついている現在、数千万の日本人が、カメラ小僧だと言っていい。
もちろん、自分もカメラ小僧である。
iPhoneのかわりにRX100を常時携帯している。
RX100は、かなり小ぶりなデジタルカメラであるけれども、携帯電話とは違って厚みがあるので、ポケットには入れづらい。
まさに、この厚みこそが携帯電話に対する優位性であり、カメラの命と言えるレンズ部が出っぱっているのである。
ポケットには入れず、ネックストラップを装着して、肩から袈裟懸けにしている。
裏面に滑り止めの加工が施してあるストラップだと、カメラの取り回しがしにくいので、滑り止めのないものを取り付けてある。
速射できる態勢、カメラ小僧のスタイルである。
デジタルカメラが普及した結果、フィルムメイカーは零落した。
携帯電話にカメラが搭載されるようになって、カメラメイカーも衰退した。
カメラを袈裟懸けにした、前時代的カメラ小僧も、もはや少数派である。
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