伊丹十三のことが書かれていると知ったので、図書館で探して、借りた。正式なタイトルはもう少し長い。『完本 天気待ち/監督・黒澤明とともに』(草思社文庫)というのである。著者の野上照代さんは、映画の記録係兼制作助手を長く務めた人である。記録係のことを日本ではスクリプタと呼ぶそうだが、撮影中つねに監督の傍にいて、メモを取る。役者がどちらの手にタバコを持っていたか、というような細かいことを記録しておいて、次のカットで役者が別の手にタバコを持っていたり、またはタバコを持っていなかったりするまま撮影してしまうミステイクを、未然に防ぐ。つまらないけれども非常に重要な仕事である。
野上さんは黒澤監督について仕事をすることが多かったから、この本ができたのだが、黒澤明とてブッ続けに映画を作っているわけではないので、合間には別の監督と仕事をする。要するに、映画制作会社所属のスクリプタというわけである。彼女は最初、伊丹万作(本名は池内義豊)についていた関係で、息子の義弘や娘のゆかり(後の大江健三郎夫人)とも交流があった。万作は早逝し、野上さんが一時期義弘の面倒をみたという話である。
彼は義弘と名付けられたが、通常は岳彦(たけひこ)、タケちゃんと呼ばれ、長じて伊丹十三を名乗る。十三の名は最初一三(いちぞう)で、東宝(東京宝塚劇場の略)と関係のあった頃に、創業者の小林の名をもらったそうである。
伊丹十三のエピソードさえ読むことができればよかったのだが、黒澤監督の映画作りの詳細が具体的に書かれているところは、そえを上回る面白さで、もちろん分量も多い。パンチとか白味(しろみ)、ダビングなどは自分自身が放送局のフィルム編集室でアルバイトをした時に経験したことなので、情景がまざまざと頭に浮かぶのである。
黒澤監督は天皇と呼ばれることがあったが、本書では天皇というワードは一切出現しない。