2017/06/16

カンテ風のチャイを自作した-->


紅茶党になって40年ぐらいになる。
そのきっかけとなった喫茶店が「カンテ・グランデ」である。
カンテ・グランデは大阪・中津で1972年にオープンした。
初めて行ったのは、その翌年ぐらいのことだと記憶している。
高校の同級生のお姉さんが紹介してくれた。

カンテは、一軒家の庭に建てられた離れといった風情だった。
風変わりな建物で、四つ角に面しているのだが、道路に面した二つの壁には、それらしい窓がなかった。
角にあたる部分にスウィングドアの入口があり、中に入ると山小屋の雰囲気である。
壁の一部は石積みになっていて、むき出しの梁が頭上を覆っている。
植物の生い茂る中庭に向いている側は一面のガラス戸だった。
ロフト風の中二階席があり、そこだけに南から光の入る窓がある。
薄暗い店内はもちろん、喫茶店向けにプランニングされたことに違いない。

オウナーの井上温さん(ヤスシと読むらしいが、オンさんと呼んでいた)と話したことがある。
こういう建物で暮らしてみたいと言ったら、維持費が大変なんですよと言われた。

最初に何を注文したか、まったく憶えていない。
紅茶の専門店なので、コーヒーでなかったことは確かだ。
しかし、レモンティなどというものは、この店には存在しない。
小さなピッチャに入ったフレッシュが添えられたミルクティも、ない。
ロイヤルミルクティもテ・オレという言葉も通じない。
この店ではミルクティのことはチャイと呼ぶ。

ミルクが入っていなくてもチャイ(=茶の意)と呼ぶが、それはまあいい。
ストレイトの紅茶をオーダーするときには、銘柄を指定しなければ始まらない。
有名どころでいうとダージリン、アッサム、の類いである。
多くが、産地の名前である。
キーマン(中国)、ディンブラ(スリランカ=セイロン)、ニルギリ(インド)など。

珍しさゆえに、片っ端から試してみた。
もちろん何度も足を運んで、である。
そのうちに、ディンブラ一辺倒になった。
コクがあって色濃く、パワフルなお茶である。
カンテではポットでサーヴィスされる。
一杯目をストレイトで味わって、二杯目はミルクと砂糖で楽しむのが習慣になった。

その後、就職や転居があって行動範囲も変わり、カンテから足が遠のいた。
その間にカンテにバイトに入って、後に社員となったのが神原博之(かんばら・ひろゆき)氏である。
ウルフルズのトータス松本くんが神原氏によってバイトに採用されたのは、そのまた後の話。
だから、松本くんの作ったチャイを、僕は飲んでいない。

次にカンテを訪れたとき、山小屋風(内側の感じ)の建物はなくなっていた。
井上さんの地所には高層のマンションが新たに建てられた。
かつてのカンテがあったところはサンクン・ガーデンになり、その庭の横にあたる、マンションの地下一階部分にカンテの新しい店が作られたのである。
地階だけれども、陽光が直接降り注ぐ、明るい店になった。

新しいカンテでマネージャに昇進していたのが、前述の神原氏である。
一時期親しくしていただき、事務所にまで入り込んで話をしていたことがある。
なんといっても、神原氏よりカンテとのつき合いは古いので、話すことが沢山あった。



バーコードをそんな所に貼るなっちゅうに


神原氏の『チャイの旅』には、ロシアンブルー猫のことが書かれている。
その猫が「じゃこ」という名だったことを初めて知ったのだが、古い方のカンテに独りで行ってディンブラを飲んでいるときに、膝に上がってきたのが、じゃこだった。

やっと『チャイの旅』(ギャンビット刊)にたどり着いた。
紅茶と、カンテのことが書いてある。
解説(口述)は、トータス松本くん。
カンテにいるときには自らを「チャノムノンスキー」というキャラクターに仕立てて、店のチラシなどに登場していた。

この本の神原氏のレシピに添って、チャイを作った。
これが正式だとすれば、正式レシピでチャイを作ったのは、生まれて初めてである。
上手に、おいしくできた。
しかし、ミルクを多く消費するし、鍋が甚だしく汚れる。
ネパールやスリランカの貧しい地方では、チャイはあまり作られないそうだ。
それほどミルクは高嶺の花なのである。
 

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