2021/04/03

藤原公経の気持ち

 「

花さそふ

嵐の庭の雪ならで

ふりゆくものは

我が身なりけり


ちょうど、今頃の季節に詠まれた歌である。

春の強い風が、京都の山に吹いている。

桜の花びらが舞い散って、まるで雪が降っているようである。

人生の盛りを過ぎた男が、邸の縁側にたたずんで、それを眺めている。

美しいが、物哀しさを感じさせるシーンである。


上の短歌は、藤原定家編『小倉百人一首』に収められた第96番の、私が最も好きな歌である。

作者は入道前太政大臣(にゅうどうさきのだじょうだいじん)とあるが、西園寺家の祖とされる、藤原公経(ふじわら・きんつね)のことを指す。


なお、藤原公経という名の人は他にもいて、

西園寺家の祖・藤原公経は、実宗の子で1171年生まれ・1244年没。

もう一人の公経は藤原成尹の長男で、叔父の重尹の養子となった人。1099年没である。

(Wikipedia調べ)














「花さそふ…」の歌の解釈について、嵐が花の散るのを誘っているとするのが大方であるが、あえて素人の感覚で解釈したい。

嵐が誘っているのであれば「嵐さそふ 花は庭の雪ならで ……」と詠んだのではないか?ということである。

したがって、私の解釈は、

「桜花が散り始め、それが風を呼び寄せたかのようであり、雪が降っているようにも見える。しかし、ふりゆく(古くなって落ちていく)のは、私自身である。」

となる。


『小倉百人一首』を、英語訳している人がいる。

McMillan Peter[マックミラン・ピーター]である。

集英社新書に『英詩訳・百人一首 香り立つやまとごころ』の著書がある。

第96番歌のマックミラン訳を見てみよう。

Fujiwara no Kintsune

As if lured by the storm

the blossoms are strewn about

white upon the garden floor,

yet all this whiteness is not snow--

rather, it is me

who withers and grow old.

マックミランも「まるで、嵐が誘ったかのように……」と訳している。


拙者もいっちょう、ひねってみた。

The blossoms fly like snowing in the stormy garden, there see myself falling.

……あまりにも簡単すぎぬか。

 

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