「
花さそふ
嵐の庭の雪ならで
ふりゆくものは
我が身なりけり
」
ちょうど、今頃の季節に詠まれた歌である。
春の強い風が、京都の山に吹いている。
桜の花びらが舞い散って、まるで雪が降っているようである。
人生の盛りを過ぎた男が、邸の縁側にたたずんで、それを眺めている。
美しいが、物哀しさを感じさせるシーンである。
上の短歌は、藤原定家編『小倉百人一首』に収められた第96番の、私が最も好きな歌である。
作者は入道前太政大臣(にゅうどうさきのだじょうだいじん)とあるが、西園寺家の祖とされる、藤原公経(ふじわら・きんつね)のことを指す。
なお、藤原公経という名の人は他にもいて、
西園寺家の祖・藤原公経は、実宗の子で1171年生まれ・1244年没。
もう一人の公経は藤原成尹の長男で、叔父の重尹の養子となった人。1099年没である。
(Wikipedia調べ)
「花さそふ…」の歌の解釈について、嵐が花の散るのを誘っているとするのが大方であるが、あえて素人の感覚で解釈したい。
嵐が誘っているのであれば「嵐さそふ 花は庭の雪ならで ……」と詠んだのではないか?ということである。
したがって、私の解釈は、
「桜花が散り始め、それが風を呼び寄せたかのようであり、雪が降っているようにも見える。しかし、ふりゆく(古くなって落ちていく)のは、私自身である。」
となる。
『小倉百人一首』を、英語訳している人がいる。
McMillan Peter[マックミラン・ピーター]である。
集英社新書に『英詩訳・百人一首 香り立つやまとごころ』の著書がある。
第96番歌のマックミラン訳を見てみよう。
「
Fujiwara no Kintsune
As if lured by the storm
the blossoms are strewn about
white upon the garden floor,
yet all this whiteness is not snow--
rather, it is me
who withers and grow old.
」
マックミランも「まるで、嵐が誘ったかのように……」と訳している。
拙者もいっちょう、ひねってみた。
The blossoms fly like snowing in the stormy garden, there see myself falling.
……あまりにも簡単すぎぬか。
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