2020/01/17

1995年の記憶


1995[平成7]年・乙亥(きのとい)。
この年は、インタネット元年といわれる。
年号を冠したコンピュータのオペレーションシステム・ソフトウェア「Windows 95」が発売されて、爆発的なヒットとなった。
オペレーションシステム[OS]の何たるかを知らずに、ブームにつられて買う人が現われたほどである。
しかしながら、インタネット接続を、ほんとうに簡単にできるようになるには、もう3年、AppleのiMacの登場を待たなくてはならなかった。

1995年当時、筆者はWindowsとMacintoshの「両刀使い」だった。
IBM製のノート型コンピュータ、PS/55 note(ピーエス・ゴーゴー・ノート)にWindows 3.1を搭載、Macintosh SE/30(エスイー・サーティ)にはMac OSではなく漢字Talk 6.0.7がインストールされていた。
ちなみに、PS/55 noteは曲線のないデザインの真っ黒な筐体であり、その後のThinkPadの前身モデルである。

これらのマシンは能力不足でインタネット接続はできなかったが、1993年ごろから始めたパソコン通信を行なっていた。
画像を扱わない、キャラクター(文字)ベースの通信である。
NIFTY-Serve(ニフティサーブ)の会員となって、初めて電子メイルを受信した時の感動は、今も鮮明である。
電子メイルのやり取りだけで中古のSE/30を買ったのも、懐かしい記憶である。

さて、その1995年の1月17日早朝、地震の激しい揺れで、文字通り叩き起こされた。
枕元には大きな本棚が立っていて、ベッドのフレームにつかえて倒れてくることはなかったものの、棚から本やLPレコード盤が頭に降り注いできた。
この時、Appleのキーボードも、落ちてきたものが衝突して破損してしまったのだが、Appleが被災者をサポートするプログラムにより、無償で修理をしてくれたのである。

震災から三日目に、神戸入りする。
阪急電車で西宮北口まで行って、そこからは徒歩で行った。
神戸方面には親戚・知人が多くいるので、安否の確認と救援物資の配給が目的だった。
最終的に、六甲アイランドまで物資を届けたのだが、歩いて橋を渡る時の余震が怖かった。

その後は、中古のバイクを買って、何度も神戸通いをすることになる。
被災地の道を走るのは、四輪よりも二輪の方が有利だった。
一方、パソコン通信が、情報を収集するのに役立ったのである。
ボランティアもパソコン通信で申し込んだのだが、それを受け入れる側のシステムは、まだ整備ができていない状況だった。
 

0 件のコメント:

コメントを投稿